報道機関は誰のためにあるのか(2024.02.11)

今日、休憩中に大手報道機関が出す記事としてあるまじき記事がネットに掲載されていた。

かかる記事は、主にジェンダーに関するセンシティブなテーマであり、「性的マイノリティの方を女子校は受け入れるかというアンケート結果」が掲載されているものなのだが、ここで某報道機関はタイトルと内容が正反対のものになっているという致命的なミスをしている。私のほうで報道機関にかかるミスを指摘すべき、、、とも思われたが、ぶっちゃけ私にはそのような余裕はないし、現マスメディアの業界に不満を持つのであれば小規模ながらも自分で報道機関を設立してしまえばよいから、指摘しなかった。

※いずれ記事は削除されるであろうから、ここにリンクは貼り付けないことにした。気になる方は各自グーグルで検索してほしい。

事実の概要(以下、アンケートに回答された女子高をそれぞれA,Bとする。)

タイトルは「A『絶対に認めない判断しない』B『今後検討』トランスジェンダー生徒受け入れLGBT女子中高アンケート」である。読者の皆様もお分かりのように、かかるタイトルだけ見ると、女子校Aは性的マイノリティを持つ生徒を断固として受け入れないし、かかる方を受け入れるかという判断もしない方針のように見える。たしかに、人によっては「絶対に認めない(というような)判断(を)しない」というように見えるかもしれない(せめて「を」という接続詞くらいつけろ、、、)。しかし、そのように読者に報道機関の良いように「解釈させる」作業をさせた時点で記事としてOUTな気がするが、ひとまず私のように報道機関からみて「曲解」した人間の立場から検討してみよう。他方で、女子校Bは上記生徒を受け入れるにつき今後検討している段階なんだなと理解できる。この点については誰も理解が分かれないだろう。

しかし、読者、いや私もこの「罠」にひっかかった。女子校Aはそもそもかかる回答を報道機関にしていなかったのだ。

記事の内容に、「Aの担当教員は電話取材に「絶対に認めないという判断はせず、世の中の流れを踏まえて検討していきたい」と話した。」とある。そう、Aにはタイトルのような断固として受け入れない姿勢をした事実が一切ない。むしろ、そのように「(性的マイノリティの生徒の入学を)絶対に認めない、という判断は、しない」と回答していることからもわかるように、断固として受け入れない判断とは正反対の立場にたっていることが理解できよう。
したがって、この時点で記事のタイトルとその内容に矛盾が生じている。しかも、昨今から世界的に話題となっている「ジェンダー」に関するセンシティブな内容なだけに、一歩間違えればかかる女子校の社会的評価がいわれのない理由で大幅に低下する可能性もある。(ちなみに、「当面認めない」と回答した女子校Cがいたが、そのCも同記事内で「希望者がいれば検討をはじめる」とも回答していることから、タイトルにあるような「絶対に認めない判断しない」という拒絶感満載の回答をしている者は誰もいないことがわかる。)

そもそもかかる記事を現時点で出す意義がまったくもって不明であるが、それはさておき、ここでマスメディア業界の素人たる私がタイトルを変更するならば、「A『世の中の流れを踏まえて検討』C『希望者がいれば検討』トランスジェンダー生徒受入についてLGBT女子中高アンケート結果」とすべきであろう。

私の考える「報道機関の価値」

私は司法試験受験科目のなかで憲法が最も強いから、憲法の側面から検討してみたい。法学部生やロー生、法曹関係者であれば必ずご存じであろう「博多駅事件(最大決昭和44年11月26日刑集23巻11号1490頁)」の判旨は、以下のとおり判示している。

「報道機関の報道は、民主主義社会において、国民が国政に関与するにつき、重要な判断の資料を提供し、国民の『知る権利』に奉仕するものである。したがって、思想の表明の自由とならんで、事実の報道の自由は、表現の自由を規定した憲法21条の保障のもとにあるのはいうまでもない。また、このような報道機関の報道が正しい内容をもつためには、報道の自由とともに、報道のための取材の自由も、憲法21条の精神に照らし、十分尊重に値いするものといわなければならない。」(ちなみに表現の自由の条文につき憲法21条1項)

では、上記のような(見る人によれば)フェイクニュースのようにも思えるような報道機関による記事にまで、博多駅事件で判示されたような報道の自由の射程が及ぶのだろうか。本来、司法試験合格に向けた勉強の範囲内であれば憲法19条の思想良心の自由に関する論点として用いられる判例「謝罪広告事件(最大決昭和31年7月4日民集10卷7号785頁)」は、表現の自由に関する論点につき以下のとおり判示した。

憲法21条は言論の自由を無制限に保障しているものではない。そして本件において、(原審の認定したような)他人の行為に関して無根の事実を公表し、その名誉を毀損することは言論の自由の乱用であって、(たとえ、衆議院議員選挙の際、候補者が政見発表等の機会において、かつて公職にあった者を批判するためになしたものであったとしても、これを以て)憲法の保障する言論の自由の範囲内に属すると認めることはできない。」(カッコは私が勝手にくくっている。)

では、本件にあてはめてみるとどうか。(当時の私は予備試験の勉強中であるから、規範とあてはめがまともではない点については一旦目をつむってほしい笑)仮に記事の内容が真実であるならば、記事のタイトルは上述のとおり内容と矛盾したものとなっている。逆も然りである。しかも、いずれにせよ無根の事実を公表のうえ、その名誉を毀損しかねないことは明らかである。したがって、かかる記事の表現は博多駅事件で判示された報道の自由の射程の範囲外とみることができる(ように思われる)。

このように、報道機関による報道の自由は原則として憲法21条1項の保障のもとにあるのだが、上記のように報道の自由の射程外にある報道までするようになった報道機関の価値はいかなるものであろうか。

報道機関の価値は、おそらく各報道機関がそれぞれ独自の価値を有しているものと思われる。それはさておき、私の考える報道機関の価値とは、「社会一般的な読み手聴き手にとって誤認のおそれが限りなく0に近い、信用できる情報の裏付けがされた事実を、正確かつ迅速に大衆へ報道すること、それを社会一般人ができないような手段を用いて実現すること」にある。上記の記事のように、読み手によっては正反対の解釈をしかねないタイトルを大手報道機関が堂々とやらかすのは言語道断である。ここでいう「信用できる情報の裏付けがされた事実」を報道する自由こそ、憲法21条1項で保障される報道の自由ではなかろうか。したがって、少々過激な言い方をすれば、本件記事を掲載した報道機関はもはや報道機関としての価値はないというべきであろうか、この点については私からは発言を控えさせていただきたい。

まとめ

・・・いずれにせよ、取材を受けた者の発言趣旨を正確に報道できない報道機関から万が一取材を受けた場合は、即刻お断りいただく胆力を今のうちに身に着けておきたいと感じた。本当に、報道機関とは誰のためにあるのだろうか。各報道機関は自らの利益を追求し過ぎるあまり、報道機関として本来あるべき姿を見失っているのではなかろうか。そう感じる記事であった点は非常に残念でならない。

最近、予備試験の答案が返却されたものの中に「何を言っているのか意味不明」と書かれるものがあるため、上記の記事を見てあらためて気を引き締めて起案を取り組みたいとも感じた。

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著者情報

大学法学部卒業後、電鉄系、法律事務所での勤務を経て、法科大学院へ進学する。果たして筆者は無事に司法試験と司法修習を突破し、「弁護士・外国法事務共同弁護士法人」を設立のうえ、日本を代表する大手事務所へ成長させられるのか!?
とある司法試験受験生のブログです。

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