上司が「人」を責めるのではなく「仕組み」を責めることで、部下は不祥事を隠さなくなる、という話がある。
一見すると、良さそうな表現ではないか。しかし、、、
失敗した人間からみればどうだろう。ここにいう「仕組みを責める」とは、「なぜこのようなミスをしたのか」「どうすればこのようなミスがなくなるのか」「ミスが起きたときの対処方法をどうするか」という点に注目して、それを責めることをいう。しかし、どうやらこの「仕組みを責める」仕組み自体、私は欠陥があると考えた。
すなわち、上司が部下に対して「仕組みを責めた」だけにとどまる場合、果たして部下は本当に不祥事を隠さなくなるだろうか。否。むしろ、私は、不祥事をより隠すような効果にはたらくと考える。
注目すべき点は、「責めただけにとどまる」というところだ。上司は、結局のところ、このような仕組みの欠陥に対して部下に考えさせるだけで、何もしていないではないか。そうであるならば、「なんでこのような不祥事をしたんだ!」と人を責めている点と、どのような違いがあるのだろうか。上司の言い方が変わっただけで、結局は失敗した人間のミスがより厳しく具体的に追及され、その改善策も上記失敗によって萎縮した人間に考えさせる点で、そのような人間がまともに改善策を提案できるはずもないのだから、人を責めている点と何ら変わりがなく、私はかような意味で「欠陥がある」と言ったのだ。
したがって、どうしてもその「しくみ」を責めたい場合は、部下には失敗の内容とその原因だけを報告させ、あとはその再発防止策を上司が提案し、部下が現場に沿って修正することで改善を促す。これが本来あるべき「しくみ」の責め方ではないのだろうか。