今日は特に書くことがないので、私の理念でも整理しておこうかおと思う。
私の理念・座右の銘、いやなんでもいいや。逸翁の言葉を私の「生きがい」としている。
事業家に欠くべからざるは研究心である。眼の着けどころがよいとか、よい着眼だとかいふが、どんなところへ眼をつけたって研究しなければ駄目だ。
研究に研究を重ねて、事業の大方針、基礎をしっかり作る。決して無理をしない。そのかはり、やり出したならば猛然として突貫する。やり掛けてダラダラしてゐたのでは駄目だ。やるまでには、綿密な注意、思慮、研究にずゐぶん手間をかけるが、一度大方針を立てたならば、猛然と何ものをも粉砕するといふだけの覚悟で進んでゆかなければならない。
上記の言葉こそ、私の理念である。そしてもう一つ。
逸翁ののこした商業道徳は、私が法曹となるための一つの道標にもなっている。
われわれの社会生活といふものは、自分さへ儲かれば他はどうなってもよいといふものではない。自由競争を基礎とする営利主義経済の組織に於ては、個別的利害の対立は止むを得ないにしても他を冒さずに自分の立つ道があればそれに越したことはなからう。
(百貨店に対する逸翁の一つの考え方として)
百貨店が価格の点で競争する場合は、よろしく自分の手で、自分の工夫で、自分の設備で製造した商品に限らるべきである。(中略)要は工夫である。すべていかなる経営も周到な用意と叡智により果敢に行へば必ず道は開けるものであることを確信する。
・・・さて、逸翁のいう「周到な用意と叡智」とは、法曹の世界にあてはめるのであれば、具体的にどのようなものであろうか?
知識?経験?資金源?
それは、今の私にはわからない。
ただ、一ついえるのは「今からでもできることから、周到な用意をすること」が肝要ではなかろうか。
例えば、叡智ならば今の授業や司法試験合格に向けた勉強で少しずつ磨かれてゆく。すぐに叡智が手に入るならばそれに越したことはないが、簡単に手に入るようなものであれば世の中の半分以上は法曹の資格をあたかも自動車の免許のように獲得できるはずだし、社会的価値も著しく低下してしまうだろう。社会的価値が低下すればその分お客様よりいただく報酬はグッと下がる。そうすると、「多世代が豊かに暮らせる社会」の実現はますます夢のまた夢の話だろう。
私が欲しいのはそうではない。今の私が欲しているのは、「○○」である。