一部の書籍は食糧と同様に「賞味期限」があるぞ!?(2024.03.10)

食糧は、賞味期限・消費期限までに食べなければ腐るというのは、誰もが知っていることだ。しかし、食糧と同様に、書籍にも賞味期限があることはご存じだろうか?

ん?書籍にも賞味期限があるだと?そんな、山羊(ヤギ)でもあるまいし、食べるわけでもなかろう!?

そう、もちろん、食べるわけではない。しかし、情報の摂取という観点からは、古い書籍から摂取する情報が必ずしも良いとは限らない。

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「賞味期限」のある書籍の例

例えば、「宇宙」という図鑑を手にとってみよう。読者の皆様は、太陽系の惑星をすべて挙げろ、と問われたら、どのように回答するだろうか?

太陽を中心として、水星・金星・地球・火星・木星・土星・天王星・海王星、と答えられるはずだ。
本題はここからだ。

約20年前に宇宙の図鑑を手にとって、太陽系の惑星について学習したとしよう。一部の方はこう反論するだろう。

冥王星が抜けているぞ!!」と。

そう、冥王星は2006年までは惑星として数えられていたが、以降は「準惑星」という肩書きで惑星のグループから外されてしまったのだ。なぜ外されたかは、権威のある学術書をご覧いただきたい。

2006年よりも前の図鑑や学術書は、冥王星(プルート)について、惑星として紹介されているが、これらの図鑑だけで太陽系について学び、それ以外の情報をシャットアウトしてしまえば、冥王星が準惑星になっていたことなんて気がつくわけがない。

したがって、「冥王星が惑星である」という情報の賞味期限は切れたのであって、そのような情報が載っている書籍は「賞味期限切れ」である。

また、人類の歴史に関する書籍も見てみよう。かつて人類最古の祖先は「アウストラロピテクス」だと教えられてきた方が多数だろう。しかし、今は違う。アウストラロピテクスよりも前の人類がいた!それが、「サヘラントロプス・チャデンシス」である。誰やねんこいつ!!

日本史や世界史、憲法や民法の教科書も様変わりしている。聖徳太子→厩戸王、真田幸村→真田信繁、女性の再婚禁止期間300日→廃止、スワジランド→エスワティニなど、まるで異世界に連れてこられたかのように情報は更新されていく!!

「能ある子どもは親をしばく」ということわざがある(いや、ないけど今ここで私が作ったw)とおり、親がこのように情報をアップデートしていないと、子供から「それはちがうよ!!」と指弾されてしまうので注意が必要だ!

書籍は意外と「生もの」だった!?例外も含めて見解を説明する!

 ちょっとはっきりした言い方をすると、私は賞味期限の切れた書籍で情報を摂取するのは、腐った食べ物を腐っていると知りながら摂取する行為と同じだと考えている。食べ物と異なるのは、それを摂取しただけでは、直ちに自分自身に悪影響を及ぼすか否かという点にある。上述したように、古い書籍は当然ながら当時の最先端の情報を提供するから、20年も経てば情報は古くなり、書籍の価値は骨董品としての価値以外になくなってしまう。

いや、今となっては誤った情報を提供することになるから、年季が入って価値の上がる骨董品よりもたちが悪い。

なお、書籍は「紙」であり、その紙は木でできているから、当然ながら虫のえさの対象である。そうすると、物理的観点から見ても書籍は朽ちてしまい、腐ってしまう。当時の誇りだけを見せながらホコリをかぶっている書籍を手に取ろうものなら、手が荒れるわ情報は古いわ管理が大変だわで、特にメリットがない。

そう、書籍は食糧ではないにもかかわらず、食糧と同様に賞味期限があるのだ。したがって、物理的に腐りにくい書籍は、文明の進化とともに急速に腐っていく。

もっとも、文学小説などは例外だろう。紫式部の「源氏物語」や清少納言の「枕草子」、宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」などは、情報の更新という概念がない。ヘルマンヘッセ作「少年の日の思い出」に出てくる「僕」は、何年、いや何十年経ってもエミールが所有するクジャクヤママユの標本を破壊し続けるし、非の打ち所がない模範的な少年たるエーミールも同様に、そんな「僕」に対して何百年経過しても舌打ちして「そうかそうか、つまり君はそんなやつなんだな」と発言し続ける。文明そのものが大きく変わる、その日まで。

歴史や法律に絶えず微修正が続こうとも、文学は現代の価値観によって変化こそすれ、歴史を生きた著者の文学へ介入することはない、というのが文学に対して素人たる私の見解である。

それぞれの書籍を食糧に例えるならば、毎年絶えず改正が続く神田秀樹先生の「会社法」はその日限りの「おにぎり」であって、上述した文学小説たちは何年も長持ちする「ようかん」といえそうである。「おにぎり」は消費期限が切れていなければ毎回非常においしい食べ物であり、私達の日常生活に欠かせない食糧の一つであるが、1~2日とすぐに腐りやすい。上述した「会社法」も、神田先生によって毎年改訂されて、毎年最先端の判例や学説等をたずさえて、基本書として販売されている。最新刊と比較すれば、当然ながら前刊の教科書は古い情報の書籍となる。六法も同様だ。
これに対して「ようかん」は賞味期限が非常に長いものの、非常食としての側面を持ち、災害時には極めて役に立つ食糧である。上述した文学小説たちも、我が国の文化が衰退しつつあるという万が一の非常事態に対して、その価値観を呼び起こす強力な書籍となるだろう。そのかわり、たしかにようかんは美味しいが、上述したおにぎりと比較すれば99%の人間はおにぎりのほうがもっと美味しいと発言するだろう、、、


ところで余談だが、私は大切な取引先に対してお中元やお歳暮として「ようかん」を送りつけることに違和感と嫌悪感を抱いている。上述したように、ようかんは「非常食」というイメージが極めて強いから、そのような「非常食」を懇意にされている取引先へ送りつけるとは、後に取引先が非常事態に陥るかもよと揶揄しているようで不謹慎極まりないと考えているからである。あくまで個人的な見解なので、気にしないでほしい。少なくとも私が代表としてお中元やお歳暮として送る際は、決してようかんは送らないので安心してほしい。

まとめ

以上のことから、書籍には(一部を除いて)賞味期限があることを論じてみた。

仮に身近にいる人間が「これは名著だから保管したい」と言い出したら注意が必要である。小説ならまだしも、法律書籍であれば、こう言い返してやろう。「あなたは新鮮な食べ物の隣にある腐った食べ物をわざわざ召し上がるおつもりですか?」と。そして「どういうことだ」と問われたら、上記の話をしてやろう。

名著かどうか、権威があるかどうかは、現代実務の世界では重要ではない。問題は、「実務で活かすことのできる新鮮な価値のある情報か否か」、すなわちバリューの出せるやつか否かが重要だ。

古い名著を廃棄することは無慈悲かもしれないし、先代の大御所の方の功績をないがしろにしているように見えるが、そもそも最先端の書籍はこれまでの多数の名著が時代に応じて改良・改善された先に生まれたものであることを忘れてはならない。最新・最先端の書籍には、数多くの名著の伝統がはじめから無数に存在するのだから、むしろそのように過去にこだわるほうこそ先人が渡したバトンを捨てる行為であって、ないがしろにする行為だと思う。

書籍は生ものだから賞味期限がある。その心を、忘れずに。

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著者情報

大学法学部卒業後、電鉄系、法律事務所での勤務を経て、法科大学院へ進学する。果たして筆者は無事に司法試験と司法修習を突破し、「弁護士・外国法事務共同弁護士法人」を設立のうえ、日本を代表する大手事務所へ成長させられるのか!?
とある司法試験受験生のブログです。

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